コクリエイティブという考え方

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けあの学校

コクリエイティブ(Co-creative)という考え方は、Co(一緒に)とCreate(創造する)が連結した言葉で、ともに創造するということである。このコクリエイティブという考え方は今後の日本社会が直面することになる、少子高齢社会の次の「コンパクト・持続可能社会」の実現に向けたキーとなる考え方である。少子高齢社会は、自ずと多死社会であり、生まれる人よりも死ぬ人が多い社会、言い換えれば、高齢者が多い社会である。この社会では、高齢者福祉が重要な産業領域となる。事実2000年代初頭から日本における高齢者経済は拡大し続け、2025年あたりをピークに大きな規模を維持し続けるだろう。しかし、2040年ごろから、多死社会、少子高齢社会というパラダイムは終了し、新たにコンパクトで持続可能な社会へのシフトが進むことになる。

コンパクトというのは、人口が1億人を割り込み、8000万人程度で安定するということであり、持続可能な社会とは、安定的に持続する社会であるということを意味している。このような安定した持続する社会というモデルは、日本においては珍しくないモデルである。そもそも縄文時代は3万年続いた持続社会であったし、江戸時代も300年間安定した持続可能な社会であった。このように、大きく拡大することはないが、反対にこれ以上小さくはならないことを意味している。

この社会の特性は、すべてのことをプラスとマイナスで表裏一体に捉えて、すべてがチェーンで結び付けられるようになることである。例えば、地震は、近代社会では「災い」であり、圧倒的なマイナスのイベントである。ポルトガルはリスボン大地震で世界帝国から滑り落ちた。日本以外でのこれら自然災害は圧倒的な禍であり、それによって国は崩壊する。しかし、日本人にとって地震さえもプラスとマイナスの二面性があった。地震が起きて、都市は崩壊する。多くの人が死ぬことになる。これはマイナスである。しかし、都市が崩壊することで、都市が回復する際の莫大な需要が発生する。そこはバブルともいえる後継機となる。また、多くの人が死ぬことになるが、都市の再建に向けた人流の活性化によって、多くの人が出合い、子を産む。景気が良くなれば、子供の数も増える。このように、マイナスは必ずプラスをもたらす。これが日本モデルである。これが可能なのは、平時からの備蓄と互いを信頼し合い、自分たちの社会の未来を信じている信頼社会があるからだ。

社会に信頼関係がなく、平時からの備蓄がない場合、崩壊した社会を回復させる原資はないため、復興特需は起きない。互いに信頼し、社会の将来への信頼がなければ、特需を起こそうとも思わないだろう。

備蓄という物理的な要素と、信頼という社会心理的な要素があってこそ、日本モデルは可能となり、持続可能な社会が実現できるのである。



高信頼社会は未来を創る

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コンパクトで持続可能な社会は、備蓄と高信頼がそろってこそ、成し遂げることができる社会なのだ。備蓄は物理経済的な要素であるが、これは単に「節約」をするべきだとか、あるべき論での現象ではなく、実は「自分たちの社会の未来を信じている」から起こせる行動なのだ。それゆえ、備蓄と高信頼社会という要素は実は根源は一つで、どちらも「社会に対する信頼感」が創り出す現象なのだ。

これを踏まえれば、日本が少子高齢社会の後にやってくるコンパクト・持続可能社会をより良い形で実現するためには、高い信頼性を持った社会を持続させなければならない。その根源は何だろうか?互いに信頼できなくなる社会とはどのようなものだろうか?欧米が戦後を通じて追及してきたのは徹底した個人主義・自由主義のパラダイムだった。すべては個として分断され、社会は機械化された。

日本も戦後、欧米と同じように個人主義・自由主義を徹底していった。すべては機械化され、効率的な社会が実現できている。しかし、欧米は互いに信頼できない社会となったが、日本は、一定の危険性があるとしても、安定して信頼した社会が実現できている。その違いは何だろうか?それは日本人が歴史的・文化的に維持してきた柔軟でお互い様の精神が影響しているのかもしれない。個人主義や自由主義というインストレーションは行われた、しかし、そのアプリケーションが動くOSは欧米と日本では全く異なる。

日本が持っている歴史や文化が高信頼社会を可能としているのであれば、そう簡単に崩壊はしないだろう。しかし、これらの要素は簡単に崩壊させられる可能性もある。それは戦後を通じて米国によって、もしかしたら中国や韓国といった反日的性質が強い外国勢力によって行われてきた「メディア戦略」によって、書き換えられている可能性がある。日本はメディアを通じた人間の認知行動を通じた工作についてはあまり重視していない。人間が認知行動によってコントロールされることをあまり深刻に考えていないのである。

もし、日本が高信頼社会を実現できない場合、その原因は日本人が戦後80年にわたって認知してきたメディアによって日本人の思考が書き換えられたことによるところが大きいだろう。

そのような暗黒の未来を見ないためにも、メディアを切り離し、疑う文化を持つことが必要だろう。



技術経営の手帳 · 技術の統治と人間の統治

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技術(technology)は、人類に様々な可能性を与えてきた。その範囲と影響力の大きさは限度がなくなりつつあるようにみえる。

しかし、技術は自らの意思を持つわけでも、それ自体で成長したりすることもできない。技術は統治することもできる存在である。

技術が人類によって統治可能だからといって、その統治を行えるというわけではない。

技術は、そもそも知識である。知識は人間と切り離して存在することはできない。

そして、技術は科学とは異なる。技術はあくまで科学知識を人間の特定の目的のために再構築したものである。

故に、技術は二重の意味で人間社会から切り離すことができない存在である。

このように人間と切り離すことができないという性質から技術は統治が困難になっている。人間は不可思議の塊で、さらにその人間が複数人集まれば週癌・社会が形成される。

人間一人でも予測や統治が難しいが、社会という単位になるともはや統治は部分的にしかできない。完全に人間や社会を統治するという幻想を持つのが全体主義である。

統治の対象が人間・社会であれば、部分的にでも統治できているのであるから問題ないが、技術は完全統治できなければ問題が生じる。

なぜなら、技術は一粒でも取りこぼせば社会全体、人類の命運を途絶えさせるような力を持っているからである。

技術を統治することは今後、人類の歴史を永らえさせるために構築せねばならない知識なのだ。



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